TrashyHeaven’sDiary

主に読書記録とか

「天気の子」感想らしきもの

新海誠監督の新作、「天気の子」の感想を忘れないうちに書こうと思う。

思う、のだが……まったくまとまってはいない。

他の人の感想を見ていくと、ゼロ年代のノベルゲームを思い出したという話が多い。あまりそこに関して造詣が深くないのだけれど、その周辺の文化圏には居た人間として、その意見はわかる。

周辺の文化圏てどこだよ、と言われると、ラノベ界隈(の端の方)である。

僕が「天気の子」を見ているときに思い出していたのは、「イリヤの空、UFOの夏」(2001年 - 2003年)であり、「推定少女」(2004年)であり、「さよなら妖精」(2004年)であり、「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」(2001年)であり、早川の「次世代型作家のリアル・フィクション」(2003-2008年)の一連の作品であり、文芸誌「ファウスト」(2003-)だった。

僕にとって、あの頃の諸作品は、まぁとにかく大切で心の奥底と強く結びついていると言っていい。それは、それらが素晴らしい作品であることはもちろん、その頃ちょうど思春期真っ盛りだったことが理由だろう。

「天気の子」は確かにあの頃の物語とダブる。

しかし、それは心地いい既視感だった。

ぐるぐるもやもやした日々を送る普通の少年(あるいは少女)の主人公と、ちょっと変わった能力を持った少女(あるいは少年)の出会い。甘酸っぱく、とは言え恋愛とも言い切れないふたり(と仲間)との触れ合い。無理解な大人との対立、絶対に成功しないとわかりきっていてもせざるをえない逃避行、そして、世界と個人との二択、その末の別れ。

……というようなストーリーラインの作品をいくつも摂取してきたし、それが欲しかった。美しいものも素晴らしいものもあるけれど、それは永遠には存在していないということを、確認していたかった……のだろうか。(現実に在るのは、「ぐるぐるもやもやした日々を送る普通の少年」だけなわけで)

正直、もう昔のことで、大人と言われる年齢になって何年も経ち、あの頃の気持ちをすべてトレースできると言ったらウソだ。

チェーンソー男はいないし、宇宙人との戦争もないし、伝奇アクション的な超能力にも目覚めない。

あとはもう、「天気の子」で言えば須賀のような、愚かなガキに自分の過去を重ねて応援してしまうような存在になることを夢想するぐらいしか、思春期セカイ系的フィクションに関われる立ち位置はなさそうだ。(もちろん、無事に大人になった気がしていても、戦争はずっと続いている)

どんどん作品の感想とかけ離れている気がする。

「天気の子」には心地いい既視感がある、という話だった。

たぶん、ひとによって感じる既視感の対象は千差万別だろうけれど、ともかく、既視感を感じさせることを忌避していないように感じた。(語られ尽くした荒野に生まれた、といった歌詞も同じことを示しているのだろう)

それは、露骨に前作「君の名は。」をなぞるような演出(事前プロモーションやタイアップもそれに一役買っている)を入れたり、登場人物をカメオ出演させたりしているあたりからも伺える。

たとえ、オタクたちのようにゼロ年代のあれこれを摂取していなくても、前作さえ見ていれば既視感を覚える作りだ。

その既視感は、最後へ向けたタメなのだろうと思う。

最後の最後で、既視感は消失する。

世界は救わないし、主人公もヒロインも死なず、かと言って離れ離れになるわけでも、記憶喪失になるわけでもない。時は巻き戻らず、大きな目に見える爪痕が残る。

それなのに、悪として、あるいは失敗した者として糾弾されることもない。

もとから狂ってたんだよ/大きな規模で見たらちっぽけなことだよ、という優しさでカバーされてしまう。

けれど、それでも、その選択の結果はふたりの心に背負わされる。背負わせているのは他の誰でもない彼ら自身だ。

そして、重荷を背負っていても「大丈夫」なのだというしめくくり。

過ちを肯定する物語なのかもしれないと思う。肯定する、というか、過ちは存在しているけれど、気にしつつ気にすんな!というか、心に背負った重荷ごと生きていく、生きていけるはずだよ、というエールなんじゃないかと、思うのだ。

「天気の子」がゲームなら、単純に考えるとバッドエンドルート、あるいはグッドエンド……少なくてもトゥルーエンドじゃない物語を、主人公・帆高は選び取った。

攻略サイトが傍らにあれば、それは明確に、失敗・過ちだとわかる。

けれど、じゃあ実際の人生の中で(攻略サイトが見れない中で)全て何もかもを綺麗に解決し、あらゆる伏線を回収するトゥルーエンドに辿り着けるヤツなんて居るか? 居ないよな? え、お前人生トゥルーエンドだって言いはるの? まだ生きてんのに? てーかそもそもトゥルーエンド実装されてます?

……ともかく、100%の大正解のルートにのっていなくても、無理に全部を手に入れようとしたり、英雄や聖人にはなれなくても、バッドっぽい選択肢を選んで重荷を背負ったり、傷ついたり傷つけたりしても、選んだこと(手を伸ばして掴んだこと)それ自体が尊く、その結果を受け止めて胸を張って、そして「大丈夫だよね」「大丈夫だよ」って言い合える誰か(あるいは何か)が居れば大丈夫だって話……なんじゃないかと思ったんですよ。

 

 

(最後ぐだったよな。いや、最初からか?)

(まぁ、いいじゃん)