TrashyHeaven’sDiary

主に読書記録とか

I Care Because You Do

I Care Because You Do

I Care Because You Do

神さまはいない。
けどいた。

神様がいたら生きるのはとても楽だ。多分。
それを信じてりゃ全部OKってな具合で、自分の基準じゃなくて神様の基準で全てを判断していけば、そして、その状態に満足していれば、色々と楽勝なんじゃないかと思う。
そう言う意味で、神様は絶対悪と似ている。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』でチェーンソー男を求める感情は、神様に居て欲しいと思う感情は同じなんだろう。

で、神様はいない。少なくとも現代じゃ。

けれども、というか、だからこそ、個人は、個人にとっての神様(のような存在)を作り出していく。時にそれは、共有幻想になって、ムーヴメントになる。
本書で言えば、庵野秀明とリチャード・D・ジェイムスと、YOSHIKIが神様だった。
「だった」だ。過去形だ。
個人にとっての神様(のような存在)は結局「のような存在」でしかないから、その人やモノは変化していく。崇拝している側の意志なんて関係なしに。
そうして、僕たちは勝手に信じた神様に勝手に失望して勝手に離れていって、ヘタすりゃ黒歴史なんて言葉に押し込めて忘れてしまったり、例え思い出しても過去の熱狂的な感情は蘇らない。
神様(のような存在)は変化しても、やっぱりすごくて、誰か別の人の神様になっていたりして、それを懐かしいような羨ましいような気持ちで眺めるハメになって変な感じになったりする。

僕個人の話をするならば、むかし見つけた神様は、いっぱいいるけど、一番は『ファウスト』とそれに関わる人たちだった。例えば、西尾維新とか、本書を描いた西島大介とか。
その『ファウスト』は次号で終わるらしいけど、僕はまだ最新号を読んでいない。あの頃から時間が経ち過ぎて、『ファウスト』の変化の波長と僕の変化の波長はどこかでズレて、『ファウスト』は僕の神様じゃなくなってしまった。そして、それに関わる人たちもまた。
どの人もすごい作家や漫画家や編集者だったから、今も活躍は眼にするし、これからだって誰かの神様でい続けるだろうけれど、少なくても僕の眼には薄い膜の向こうにあるように見えてならない。今でも好きだし、結局、僕個人の「信仰」の問題なんだけれど。

あからさまに、神様(のような存在)を求めたり崇拝したり縋ったりするのは、今の日本じゃ、青臭くみえる。でもそんな時期もあるし、それがなきゃ生きていけないように思ってしまうこともあるし、で、離れてみても結局別の何かを神様に祀り上げて拝んでるだけじゃねーの(会社とか家族とか恋人とか)なんて思ってしまったりするけれど・・・なんていうような、ぐるぐるぐるぐるした気持ちを、やさしく受け止めてくれるようなところが、本書にはあります。

ってな感じで、感想なんだかなんなのだか、久しぶりに書いたら長くなりました、と。

I care because you do.
きみが想ってくれるから、ぼくもそうする。